「手のぬくもり」
茂原市で在宅医療をはじめてもうじき2年が経ちます。その間、たくさんの患者さんとの出逢いがあり、たくさんの会話をしてきました。そして、ときに患者さんの言葉は僕の心に響き、大切なことに気づかせてくれることがあります。今回はそのような患者さんの言葉をテーマにしたエッセイを紹介します。
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先日、80代女性の患者さんから、ある言葉を頂きました。その言葉は、もしかすると、僕が医師になってから、ずっと心のどこかで憧れていた医師の姿を示す言葉であったのかもしれません。
なぜなら、その言葉を患者さんから頂いたときに、ふとこんな感情が湧いてきたからでした。
(ああ、もうこれで充分だ。僕はいつ医者を辞めてもいいな・・・。)
その患者さんは癌を患い、病院で手術や抗がん剤の治療を2年近く継続して行ってきていました。ただ残念なことにこれ以上抗がん剤治療を続けても回復が見込まれない状態となってしまい、残りの人生を自宅で穏やかに過ごしたいと在宅医療を選択されたのですね。そして、それ以降は病院への通院は止めて、僕が定期的にご自宅へ訪問して診察するようになったのです。
初めて自宅へ伺った際は、癌の痛みはなく、食欲もあり、屋外へは出られませんでしたが、室内はご自分の思うように移動していました。家族のサポートも必要最小限で、入浴や食事など自分のことは自分でされていました。
訪問の際に昔のことを伺うと、20年前までは美容院を経営していて、
「今でも自分の髪は自分で切っているのよ。後ろは鏡を見ながら切るの。白髪染めもしているのよ。」
とのこと。
「先生の髪も伸びてきたら、切ってあげましょうか。」
「ぜひ、お願いします!」
と笑いながら話しをしたことを覚えています。
その他にも、働くのを辞めてからは、プールへ通うようになり、数年前までは1日1000mもの距離を泳いでいたとのこと。そして、クロール、平泳ぎけでなく、背泳ぎ、バタフライもできたとか。
(この年代の方がバタフライで泳げるって、凄くないですか)
「今も泳ぎに行きたいのだけれどもね。コロナだからいけないのよね。残念だわ。きっとプールのお友達も同じ気持ちよね。」
とそのようなことも体調が落ち着いていたころは話していました。
ただ病気はどうしても進行してしまうものであり、僕の訪問診療が始まって2か月目には少しずつベッド上で横になっている時間が増えてきました。そして、最後の1週間は食事が摂れなくなり、ウトウトするばかりで、話ができる時間も短くなっていました。
今、振り返ると亡くなる3日前のことです。
ご自宅に訪問した際に、患者さんのベッドサイドで挨拶をすると「おはようございます」と小声で返答がありましたが、それ以降は意識がぼんやりしていたためか、目を閉じてしまい自分から言葉を発することがありませんでした。
その後、体温や血圧、血中酸素濃度を測定したり、胸部や腹部の音を聴診器で聞いたり、腹部の触診をしたり、一通り身体の診察を行いましたが、その間も穏やかな表情で目をつぶって休まれていました。
そして、僕は隣の部屋へ移動し、ご家族から患者さんの様子を伺ってみました。昨夜の様子や、ここ数日の経口摂取量や排泄の状況、嘔気や痛みの状況を教えてもらったところ、患者さんは苦痛なく穏やかに過ごされていたとのことでした。
その後も同行している看護師がご家族と話を続けていたため、僕はもう一度患者さんのベッドサイドに戻り、そっと左手に触れ、脈を取ったのです。
その時にふと患者さんがこの言葉を口にしたのです。
「先生の手って、優しいのね。」
(えっ、どうしてわかったの。なぜウトウトして目を閉じている患者さんが、僕が触れたことに気づいたのだろうか。)
思いもせぬ言葉に心が動いてしまい、返答に間が空いてしまいました。
「ありがとうございます。そう言って頂けてとてもうれしく思います。」
そして、その翌日から患者さんは昏睡状態となり言葉を発しなくなりました。穏やかな最期でした。もしかすると、それが僕との最後の会話であったのかもしれません。
「先生の手って、優しいのね。」
触れた手から優しさが伝わり、その手が誰の手であるのか、見なくても分かる。
ほんの偶然なのかもしれないけれども、そんなことを伝えられる医師に僕はなれたのかもしれない。
そして、それは僕が20年以上、医師を続けていて、いつの間にか理想としていた医師像であったのかもしれ
ません。
だからこそ、もし、たった一人の患者さんからであったとしても、そのように思ってもらえるのであったら、僕は医師をしていて良かったなと思える最高の言葉であったなと思うのです。
(ああ、もうこれで充分だ。僕はいつ医者を辞めてもいいな・・・。)
そんな心境になるのですからね。
さて、あなたにとって最高に嬉しい褒め言葉って何ですか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。