「未来のいのち」
僕は仕事柄「生老病死」について考えることがあります。今回は2021年5月に投稿した「生=いきる」をキーワードにしたブログを紹介します。
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今回は「生老病死」の生がテーマです。(本来、生老病死の「生」は「生まれる」を意味していますけれども、今回は「生きる」としますね。)
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「先生、半年後に娘の結婚式があるのです。そこまで何とか生きられますか?」
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「先生、来年の3月に息子が小学校を卒業するのですね。できたらその式に出たいのです。何とかなりますか?」
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脳神経外科医として病院勤務をしていたころに、外来診察中に、患者さんからこのような未来の命について、質問を受けることが何度かありました。
あらためて頭部MRI画像に写し出された脳転移巣の大きさや部位や個数などを確認しながら、そして、今までの自分の経験と、患者さんの想いと、一般的な病気の経過など、いろいろな想いや医学の知識が頭の中を巡り、その結果、このように答えてきたように思います。
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「うん、何とかなります。」
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「分かりました。何とかします。」
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それは、決して100%の確証はないのだけれども、患者さんの想いに応えたいという医師としての想いと、是非その希望が叶って欲しいという個人としての願いも込めて、患者さんの目を見ながら、はっきりと、そのように答えてきたことを覚えています。
(もし自分が患者さんの立場だったら、それは、やはり、その時までは生きていたいですから。)
そして、そのような患者さんとのやり取りを終えて、ふと思うのです。
僕はこの患者さんのように「生きたい」「生き続けたい」という生への強い意欲を持っているのだろうか。いや、やはり、それほどまで生きることに対して強い想いは持っていないだろう。
それは脳神経外科医として病院に勤務していると、つい先ほどまで、いつも通りに過ごしていた方が、脳内出血や脳梗塞などで倒れてしまい、そのまま意識が戻らずに命を落としてしまうことがあったり、いつものように自宅を出たものの、出先で交通事故に逢い、頭部に深い傷を負ってしまい、その結果、寝たきりになってしまったり、一瞬にして、その人の命が終わってしまうことや、その人らしさが奪われてしまうことを沢山経験してきたからかもしれません。
そして、これらのことから、僕の「生」への考え方は、
「その日、その時、その瞬間を大切に生きること。なぜなら明日は必ずやってくるとは限らないのだから。」
つまり、未来の命については期待しないようになっていたのです。
ただ、先日、これが変わってしまった自分がいることに気付いたのです。
それは、こんなことがきっかけでした。
「もし、今、自分の人生が終わってしまったとしたら、どうだろうか。」
「もし、今後、自分の夢が実現できずに、この世を去ることになったらどうだろうか。」
「誰か僕の代わりに茂原の街に訪問診療を広めてくれる医者はいるのだろうか。」
これを考えてみたとき、
僕のこころの中から
「このままでは終われない」
「生きたい」
「何としても夢を実現するまで、生き抜きたい」
という強い想いが湧いてきたのです。
まさか自分の中にもこれほどまでに、生に執着するような強い想いがあったとは、驚きでした。
ただ、その一方で、それくらい自分の夢は強く叶えたいものなのだということにも気づいたのです。
どうやら、僕の夢は「何としても叶えたい」「これが叶えられなくては死んでも死にきれない」というような本気の夢のようです。
さて、あなたの「生」への想いは、どれほどの強さですか。